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京都興聖寺の展示環境(春)

「水相・以身聴浪」展言

縁起

一方は経巻のなかで、時の痕跡を修復し、
一方は歩みのなかで、身体を通して文明をあらためて経験する。

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本展は、奈良の神木を用いて制作された三百年の時を宿すサーフボード作品を核とする。これが禅の空間へと迎え入れられるとき、それはもはやスポーツを指し示すものではなく、「流れの中でいかにして立つか」という問いをめぐる隠喩となる。

京都・興聖寺には、古来より特定の季節に達磨の大幅画像を風に晒す習わしがある。達磨は「壁観」と「行持」によって知られ、その姿は単なる観賞にとどまらず、世を歩むなかで修行することを静かに促す。

本展では、達磨の「一葦渡江」の故事を精神的な比喩として援用する。

葦の軽やかさは神力によるものではなく、執着を離れ、通達へと至るなかで渡りを成し遂げる在り方を象徴している。

サーフボードは現代における「葦」となり、身体の感覚を軸に、水面においてバランスと覚知を養うための器となる。

本展において、サーフボードと達磨の図像は単なる象徴として並置されるのではなく、「行」「渡」「止観」という精神の位相において響き合う。

「水相」とは、かたちであると同時に心のありようでもある。それは無常であり、また今この瞬間でもある。 「以身聴浪」とは、波を制することではなく、自らの身を水のリズムへと委ねることにほかならない。

興聖寺という今なお修行が息づく場において、見るという行為は視覚にとどまらず、自らへと立ち返る過程となる。本展はまた、四季の移ろいとともに展開し、時間のなかで繰り返し訪れ、体験されることを志向する。

流転する世の中にあって立ち、無常のうちにあって気づきと安らぎを見出す。「私」と世界との関係をあらためて問い直す。浪を聴くことは、すなわち自己の声を聴くことでもある。

—— キュレーター 趙磊